和久の自宅に戻り、軽くシャワーを浴びていた聖子の元に連絡が入ったのは、病院を離れて僅か2時間後のことだった。 「おばば様が倒れたらしい」 名木は電話で彼の指示を仰ごうと知らせてきた。 和久はすぐに病院に掛け合い、もう一室個室を用意させて、そこにサダを運び込むように手配した。しかしサダは少し休み動けるようになると、周囲の心配を余所にそのまま家に帰ると言って聞かないので、和久にここに来て何とか説得してほしいということだった。 「まったく、あのおばば様の頑固ぶりには頭が痛い」 元々病院嫌いで有名なサダのことだ。きっと入院と聞いた途端、這う這うの体で逃げ出そうとしたことは想像に難くない。 何かあっても病院には行かず、村の開業医に往診を頼むほど病院嫌いな彼女が、それを曲げてまで毎日自ら病室に出向いてくれているのは偏に特異な病状の佳奈のことを思ってのことだろう。 しかし、和久が懸念していた通り、やはりサダの体にも限界が来ているようだ。 彼が頼めばサダは自分が倒れて動けなくなるまで術を施し続けてはくれるだろう。しかし、佳奈の状態に好転が望めない限り、いつかは彼らが共倒れになることは目に見えていた。 車の手配をした後で、和久は聖子の部屋を訪れた。 自分はこれから念のため病院に向かうつもりだったが、彼女が今すぐに駆け付けてもできることは何もないだろう。それでもどうするか、彼女の意向を一応聞いておこうと思ったからだ。 病院から戻ったばかりで、もし休んでいるようならば無理に起してまで話さなくてもよいと敢えて内線電話は使わなかったのだが、軽く入口をノックすると彼女はすぐに表に現れた。 「倒れたって、あのお婆さんが?」 「どうする?私はこれから病院に行くが、君がそうしたいなら同行してもよいと思って」 「行きます。15分、いえ10分で準備をするから、少しだけ待ってください」 まだ化粧もせず洗い髪のままだった彼女は、そう言ってドアを閉めるとすぐに仕度に取りかかった。 病院に着いた二人は、入口で待っていた名木に迎えられた。 サダは今のところは和久が取った病室でとりあえず休んでいるらしいが、やはり家に帰ると言って聞かないらしい。 「それで佳奈の方は?」 聖子はサダが施術の途中で倒れたと聞き、真っ先に名木に確かめた。 「今のところは大丈夫みたいです。と言っても良くも悪くもなっていないという感じですが」 彼女はほっと胸を撫で下ろした。佳奈に何かあったせいで、サダもつられて一緒に具合が悪くなったのではないかと案じていたからだ。 「それで、おばば様の様子は?」 「倒れた時には一時気を失ったので慌てましたが、すぐに意識を取り戻してからはいつも通りですよ。 駆け付けて手当てをしようとした医者をヤブ呼ばわりするし、点滴は嫌がって駄々をこねるしで、もう大変でした。看護師さんが知り合いでよかったです、まったく」 名木は苦笑いしながらその時の様子を語った。 「ちょっと先におばば様のところをのぞいてから佳奈さんの病室に行こうか」 「ええ。そうさせてもらいます」 こうして二人は、佳奈が入っている特別室があるフロアの下、個室が並ぶ階へと向かった。 「おばば様、お加減はどうです?もう起き上がっても大丈夫なのですか?」 病室に入ると、サダは高さを下げたベッドに座っていた。 「おお、主殿か。大した事はない。ちょっと目が回っただけじゃ。それをあの若造と医者が大騒ぎしてこんなところに押し込めるもんじゃから…」 サダはいかにも不服そうにぶつぶつとこぼしている。 その矍鑠とした様子を見る限り、大丈夫そうにも思えたが、見るからに顔色が冴えないのが気にかかる。 「どれ、主殿も見えたことだし、そろそろお暇させてもらおうかの」 「おばば様、ちょっと待って下さい。念のため今、名木が担当の医師に確認に行っていますから」 「ふん、そんなもの待ってはおれぬわ」 そう言いながら杖をついて立ち上がろうとして、ふらりと横に揺れたサダの体を和久が慌てて支えた。 「おばば様、やはり無理でしょう。一晩ここで休まれた方がいい」 「大丈夫じゃて。誰が何と言おうが、こんなところに長居は御免じゃ。儂は家に帰るぞ」 「おばば様」 その時、ノックする音が聞こえて、名木がドアから顔をのぞかせた。 「社長。ちょっとよろしいですか?」 「何だ?」 「ドクターからお話があるそうです」 「わかった」 名木に呼ばれた和久が部屋を出ていくと、それまで気丈に立っていたサダがベッドにへたりこんだ。 「やれやれ、主殿の手前ああ言ってはみたが、思いのほか体にガタがきとるようじゃわい」 サダは深い皺のある顔をくしゃりと歪めた。 「あまり無理をなさらない方が。瀧澤さんの言うとおり、少しお休みになられたらいかがです?」 聖子は側に置いてあった水差しからコップに水を注いで渡した。 「いや、昔からどうも病院は苦手でな。こういう場所にはこの世に思いを残してあちらに渡れぬ者たちが寄り集まってくる」 渡された水をごくりと飲むと、サダはふっと息を吐き出した。 「あんたには分からんか?見えても不思議ではないと思うのじゃが」 聖子は強く首を振った。 「私にはそんなものは見えません。もともとそういった力はないみたいですし。それに…見えない方がいいと思っています。ただでさえ人とは違うんですから、これ以上変人扱いは御免被ります」 サダの淡々とした語り口に、思わず聖子も本音が零れた。 「そうか、お前様も色々と苦労した口か。それならそう考えても仕方があるまい」 コップを受け取ろうと差し出した彼女の手を突然サダが握った。前触れのない接触に、思わず手を引こうとした聖子だったが、構わずサダは彼女の手に触れたまま語り続ける。 「じゃが、これだけは言っておく。もし…もしも、じゃ、儂に何かあった時には、お前様があの娘さんを救うこと。これが為せるのはお前様しかおらんのでな」 恐れていたようなことは起こらなかった。ただ老婆の心を読む代わりに、何かよく分からない温かな力のようなものが自分の方に流れ込んでくるのを感じただけだ。 「儂と同じことが、お前様にならできるはずじゃ。今はできんでもいい。じゃが、もしもの時には」 「でも私にはそんなことは…」 「あんたならできる」 サダはそう断言すると、彼女の手を放した。 「いいか、忘れるでないよ。その時に、あの娘さんをこの世に繋ぎとめておけるのは…お前様だけじゃからの」 戻ってきた和久は、渋い顔で帰り仕度をしているサダを見た。 医師の診察では、倒れた原因は過労ではないかということだった。九十を超えた老婆に「過労」とはいかがなものかと思うが、それ以外には理由のつけようがないらしい。 本来なら入院の上、安静にして栄養を摂らせる必要があるのだが、病院を嫌がるサダをここに引き止めておくことは至難の業だった。 結局、サダは無理をおして帰宅してしまい、聖子と和久も佳奈の付き添いを名木に任せて自宅に引き上げた。 一人暮らしの老婆に何かあってはと和久が付き添わせた者から夕方連絡が入り、サダが高熱を出して寝込んだとの知らせを受けた。 医師の処方で今は何とか落ち着いて眠っているとのことだが、やはり暫くは安静が必要だろう。 そしてその日、佳奈に付き添っていた名木から連絡が入り、彼女の容態が急変したとの知らせを受けたのは、深夜になってからのことだった。 HOME |